自分史

メッセンジャー編集長兼変酋長&シンガーソングランナーの杉浦貴之です。

杉浦貴之。1971年5月29日、愛知県西尾市生まれ。1999年10月1日、28歳にして、がんを宣告され、即手術。化学療法2クール。両親には余命は「早くて半年、2年後の生存率0%」と告げられた。

しかし現在、がんになる前よりも、元気で幸せに生きている。2008年12月結婚、2009年11月には第一子が誕生。
現在は愛知県岡崎市に住み、命と向き合い、今輝いている人々の体験を綴った情報誌「メッセンジャー」の編集長をしている。
2005年12月ホノルルマラソン完走、「走れるほどに元気になったのではなく、走ったら元気になった。まずは動くこと」本人談。

2010年12月、がん患者さん、家族、サポーターを80名集め、「命はやわじゃない!」がんサバイバーホノルルマラソンツアーを主宰。その様子は2011年1月、テレビ愛知制作のドキュメント番組として紹介される。

体験に基づいた詩が歌となり、2007年4月20日、オリジナルCD「Life is strong」発売。現在、トーク&ライブ、講演、取材と全国を駆け回っている。

敏感だった幼少時

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幼いころからとても好奇心旺盛だったようです。世の中のいろんな疑問を両親や身近な人にぶつけていました。答えの多くは、「そんなこと考えるな、そういうものだと思え」というもの。それ以来あまり深く訊ねることを止めてしまったようです。

保育園に入る前だと思いますが、自分以外に存在するものはすべて敵で、いつか襲ってくるのではないかとおびえることもありました。鮮明に記憶しています。どこの家庭にもある確執に、私は他の子どもたちに比べて、より敏感反応していたようです。

彼ら、彼女たちはお互いの悪口や不満を私たち子どもにぶつける。そんな中でぼくは人のご機嫌を伺うことや人に合わせて自分を抑えることを身に付けてしまったようです。

このときに形成された性格が、のちに患う大病にも影響を及ぼしたのかも知れません。

しかしこのような運命を全然恨んではいません。母も、父も、祖母も、祖父も、それぞれが深い愛情を僕に注いでくれて、そしてそれぞれが自分の人生を懸命に生きていたのです。今の自分があるのはこの家庭に生まれてきたおかげであり、ここまで育ててもらったことにとても感謝しています。

学生時代

小学校、中学校、高校といわゆる優等生(超ではない)でした。生徒会長もやりました。親を喜ばせるため、社会で成功するためと勝手に思い込み、勉強もしました。人間関係で悩み、本当の親友なんていないし、人に溶け込むのが苦手でした。当然、恋愛も奥手で、高校にあがると人前で女の子と話すら出来ませんでした。

1990年、名古屋の大学へあがり、何とかこのことを克服しようと誘われる合コンはすべて参加。まさに合コンの雨あられでした。合コン、合コン、雨、合コン(権藤、権藤、雨、権藤)。

最初は楽しいというより拷問!合コンが拷問って!女性とコミュニケーションをとるのに必死な自分。そのとき出会った女性からの言葉。

「杉浦くんって、意気地なしね」

肝心な場面でせめきれない。
ま、それでも、数々の失敗のあと、何とかまともに女性と話もできるようになり、本物かどうかは別として、世間一般でいうところの恋愛の形を体験できるようになりました。

また、小学校からやっている野球で成果があがったのも自信になりました。
あるときピッチャー(ノーコン!)も任され、4番(チャンスに弱い!)を打ち、ホームランもスタンドに放り込みました。苦しいだけの野球から、野球そのものを最後の1年で楽しむことができたのです。

ただ人間関係については、自分を抑えて他人に合わせることによって、他人への恐怖を取り除いていったような感じでした。本当に意味では解決しておらず、問題にふたをしていただけ。

たまには明るい話題!

大学4年生のときにホノルルマラソン、3時間50分で完走!! 偶然、間寛平と一緒にゴール(2008年12月はその間寛平さんのツアーでホノルルマラソンに参加します)。その2ヶ月後、今度はアメリカのマイアミで交通事故!! 友人の運転するレンタカーで、対向車線の車とはげしく衝突。

マイアミ警察24時間よろしくパトカーのサイレンがうなり、救急車を初体験。病院で、何針縫ったのか聞いてみた。

「How many?」

「Ten!」

失神しそうでした。その後何度も救急車に乗ることになるとは、このときは知るよしもありませんでした。

就職

会計事務所に入社。まじめに仕事に打ち込みました。

素晴らしい会社でしたが、ここでも家庭内と同じように常にぼくは上司や社長の顔色を伺っていたのです。かなりの高給をもらい、外車に乗り、週末はゴルフで、夜はクラブと、楽しい思いもし、同級生と比較しては優越感に浸っていました。

心も体も休ませませんでした。仕事から帰っても、家で勉強、仕事、たまにフーゾク・・・おっと!。休みの日、友だちが遊びに来ても、「仕事だから」と断る。たまに草野球に行っても、バッターボックスの中で、お客さんの顔を浮かべる。デート中、上司からゴルフの誘いがあれば、もちろんデートは終了。「ごめん、仕事が入った・・・」「えっーー?」

~ 社会人時代 24歳くらいです ~

社会人時代 24歳くらいです

心身のコントロールができず、自分でストレスを作り出していることには気付きません。いつのまにか表面上の人間関係を無難にやり過ごす術を身に付け、それは本当の自分を抑えることであり、こんな生活は長くは続きません。

ついに身体にきました。

腎臓がんに

就職して6年半後の28歳の秋、1999年10月。腎臓がん宣告。

ど根性ガエルのぴょん吉のごとく、飛び出してくるような勢いの腫瘍が眼前のボードに映し出されたのです。「早期発見ですか?」と見るからにそうではないとは思いつつも、最後の望みを掛けて訊ねる私に、主治医は明らかに次の言葉が出ずに困っている様子でした。

先日、母親から聞いたのですが、「余命は早くて半年、よくもって2年」と告げられていたようです。ある日、母親がぼくのことを生きているのが不思議だと言っていた理由が分かりました。

私の腎臓がんが分かる2年前に同級生の友人をがんで亡くし、そのときに健康食品でがんが治るという本を読んだことがあって、その細い糸をたぐって這い上っていくことができました。しかし彼の壮絶な最期を見ていたので、度々恐怖にも襲われました。

手術のあと2度の化学療法。きつかった。

それでも病院を抜け出し、化学療法で毛の抜けた頭を帽子で隠し、悪友と男が喜ぶ店に行ってしまいました。これ以上話せませんが(笑)、かなりの自信になりました。

そこで出会った女性はがんを克服した女性で、かなり勇気をもらう。いろんなところに縁というものあるものです。人生に無駄はない!ただし良い子は真似をしないように。

病院では感謝の涙ばかりでました。まわりの支えが本当にありがたかったです。

絶望の中にいたぼくを救ってくれたのは・・・・・ぼくをこの世に産み出してくれた両親だった。ぼくを育ててくれた両親でした。
「自分の命に変えてでも、貴之を助けたい」・・・言葉ではなく、両親の姿から、そんな思いがぼくに伝わってきたのです。「私は息子を信じます!余命宣告なんて絶対に信じません」母は、そう主治医に啖呵を切りました。

ある人が私を見てこう言いました。「あなたに対するまわりの愛がコップに溢れて、それがあなたの生きる力を目覚めさせたのだよ」と。

決意

ぼくはそれまで、親の期待に応えよう、いい子でいようと思って生きてきた。長男のぼくは、「海外を飛び回る仕事がしたい」という夢をしまい込み、地元の高校、地元の大学をストレートで卒業。就職したのは、家から10分のところにある会社。だれよりも親孝行をしていると思っていた。間違いだった。ぼくの勘違いだった。

「ぼくが生きているだけで、お父さん、お母さんは嬉しかったんだね~!ぼくは生きているだけで、お父さん、お母さんに幸せを与えていたんだね。ごめんね、気づかなくて」
「生きているだけで素晴らしいんだ、ぼくたちは生きてるだけで祝福されている!」そう気づけた瞬間、ぼくは変わった。「自分で作った病気は自分で治せる。絶対にこの病気を治してやる!」ぼくの心にスイッチが入りました。

「このままでは絶対に終われない!」「絶対に終わらない」・・・・ぼくは力強く起き上がる。
がんになった原因を探るため、病気を治すため、本気で自分自身と向き合う決意をしたのです。

自分の中に「がんを治すスイッチ」が入る。
そして、「がんを治す」だけじゃなくて、「今、幸せになろう」って思った。たった一度の人生、思いっきり好きなように生きてやろう!「やらずの後悔」なんて、もうごめんだ。「未来の幸せ」のために、「今苦労する」のもごめんだ。
今、幸せになろう!今を楽しもう!
以来、ぼくは動き回りました。感じたら動いた。体の全細胞に声を掛けながら。「大丈夫、大丈夫、大丈夫!お前は元気になる」。

退院から3日後、友人の結婚式にて。抗がん剤で抜けた毛を帽子で隠している

退院から3日後、友人の結婚式にて。抗がん剤で抜けた毛を帽子で隠している

辞職・放浪の人生へ

でもでもそれは、そんなに平坦な道ではありませんでした。こんな病気になっても3ヵ月後には、以前の職場に復帰しました。がんになっても、頑張りすぎる、強いところを見せたがる自分がいました。

やはり体調はよくならず、長野の穂高養生園に1週間療養に行かせてもらいました。そのときふっと自分の中にある思いが湧き上がってきたのです。このままじゃいけないと。長野の大自然が教えてくれました。人生において何を優先するかを。命だ!これは自分の心の叫びでもありました。

帰ったらすぐに辞表を提出し、会社は快く、私の新しい旅立ちを祝福してくれました。その会社には、今でもお世話になっていて、温かく私を迎えてくださいます。

ここから放浪の旅が始まります。2000年12月、長野の松川村で生活合宿を開催している松川ナリッシュに行きました。ここではマクロビオティック、仏教、瞑想について学びました。この世界を体験することによって、かなり心と身体が癒されていきました。

旅に

そして旅に出ました。沖縄に行って、その後はバリ島!

ここで俳優の山本太郎さんと日本食レストランで偶然に出会ったのです。親子で来ていて、初めて会った私に、真剣に心からアドバイスをしてくれました。図々しい私は帰国してからすぐ彼らの住む東京へ遊びに行き、彼らのおかげで、病気の原因が自分自身にあることが、ようやく分かりかけてきました。ヨーガも一緒に習い、心身ともに、徐々に回復に向かっていったのです。

バリ島の日本食レストランにて。ぼくの顔色はまだまだだなあ~

バリ島の日本食レストランにて。ぼくの顔色はまだまだだなあ~

もともと好奇心旺盛な私は、彼らの勧めで北スコットランドのフィンドホーンに行くことになりました。しかも一度帰って、3ヶ月半もの長期滞在をしてしまいました。

素晴らしかったです。

何の利害関係もなく、人間同士があたたかく接していた。世界中に友人ができ、そのときいっしょに過ごした友人からは、日本に帰ってからも、何かと助けてもらっています。

がんを克服した人が何人もいました。

磁場のエネルギーが高いと言われるフィンドホーンに行けば、体調が良くなると信じて、長期滞在していました。そして、長く過ごすうちに、頼るのは場所ではなく、自分自身だと感じ、予定より早く帰ってくることになったのです。

フィンドホーンから帰国して次はハワイに行きました。そしてあの「9.11」のテロが起きました。

フィンドフォーンにて

フィンドフォーンにて

ハワイで911

ハワイではテロの当日も、何事もなかったかのように、アメリカ人も日本人もビーチで楽しんでいました。怒りや悲しみを引きずるよりも、やっぱりどんな状況でも一瞬一瞬を楽しんだ方がいいのでしょうか。

アメリカ人の友人からすぐにメールが来ました。そこには「テロの原因はもともとアメリカに問題があり、これはアメリカのカルマだ」って書いてあったのです。星条旗を振りかざして、報復を声高に叫んでいる多くのアメリカ人の中で、こんな人もいたことに驚きました。

次の日、星空観測ツアーに参加し、そのコーディネーターと「報復攻撃」について議論になってしまいました。彼は日本生まれで、帰化してアメリカの国籍を持っている人。彼は絶対に報復だと言います。

「息子が殺されたら、絶対に、どこへでも殺しに行く」と。ぼくは「自分が殺されても、親父には報復してほしくない」と言いました。最後には私の身体を気遣ってくれて、握手をして別れました。触れ合えば、言葉もなく分かり合えるのですね。

牛島さんとの出会い

2000年の2月、フィンドホーンの縁で、音楽プロデューサーの牛島正人さんと出会いました。彼はスーザンオズボーンなども手がけているひとです。

彼のボイストレーニングを受けて、身体がどんどん軽くなっていきました。すべてをゆだねて、解放して、ほんとうの声を取戻すというもので、声そのもので自然治癒力を高めていくといものです。

牛島さんも余命あと1ヶ月という大病を経験されていて、たくさんのことを教わりました。何より牛島さんの存在が僕に勇気を与えてくれました。しばらくそこでスタッフとして働きました。

こうやっていろんなところに行っていると学びも多い反面、その組織や人の思いや考え方にとらわれてしまってもいました。

例えば、あるところで勉強していても、自分の感性を磨かないといけないはずなのに、その組織のフィルターを通して世の中を観るようになってしまったのです。自分の判断を放棄してしまっていました。

でもこれは自分の責任です。またはいろんなところに顔を出すことによって分かったともいえます。だからすべて必然で、自分を成長させるために起こってるのですね。

腸閉塞を発症

牛島さんのところでスタッフとして働いて半年、2002年8月、初めての腸閉塞にかかり、7日間の入院を余儀なくされました。

結局、今までのくせが抜けないままに働いたのが原因でした。人に合わせること、ご機嫌を伺うこと、無理をすること、そうしてまた神経をすり減らしてしまったのです。そしてその2ヵ月後、2003年2月、3月、2004年1月と立て続けに腸閉塞で入院をしました。

最後の方は痛みがひどくなる前に自分で救急車を呼び、一人暮らしなので、自分で着替えなどの入院の準備を整えて、救急車が到着すると、「私です」と覚悟を決めて出て行くといった具合でした。いつも、深く思い悩み、焦っているときに食べ過ぎて、腸閉塞は起こります。思いが重くなり、腸を塞ぐのでしょうか。この体験をもとにできた歌が「かあちゃん、ごめんね」。

2003年11月にはまた「すわっ!腸閉塞か」というような激しい痛みに襲われました。その時は自分の手をお腹に当てながら、身体に感謝を捧げつづけました。

吐き続け、ある瞬間、痛みが解けるのが分かり、治ってしまいました。元気なときも、休まず働いてくれている身体に感謝をささげたいものです。

2002年12月、旅行で訪れた宮崎が大好きになって、移住。

高千穂峡

高千穂峡

高千穂にて2

高千穂にて2

串間にて

串間にて

青島の朝陽

青島の朝陽

たくさんの人との出会いでぼくは元気になりました。元気になったぼくは、誰かに元気を与えたくりました。
2005年1月、命のマガジン「メッセンジャー」発刊!雑誌制作なんて経験ない、完全など素人。取材、写真、広告営業、販売活動、すべて一人。思いだけで走り始めたら、たくさんの人が応援してくれました。
走り始めたら、どんどん元気になっていきました。

そして、2005年12月、入院当時からの夢だった、2度目のホノルルマラソンに挑戦!
本番当日、42.195キロを一度も歩かず、5時間半で完走。ゴールの瞬間。感動の涙・・・・・はなくて、まだまだ走りたいと思っていた自分に感動!!!「俺ってすげええ~!」

過酷なフルマラソン~!

本当に過酷なフルマラソン~!

本当に走りました!

本当に走りました!

ある人に聞かれます。
「フルマラソン走るなんて、すごい!よく走れるようになったね~!」
「いや、違うんです。走れるほどに元気になったのではなく、走ったらから元気になったんです!」
この言葉を発したとき、すべてが繋がりました。
親の思いで「自分で治してやる!」というスイッチが入ってから、ぼくはずっと動き続け、走り続けてきました。元気になったら動くのではなく、感じて、動いて、走って、元気をつかんできました。元気をつかみにいったのです。
たまに道をそれて、歓楽街に消えたけど・・・そこでも元気になった~(笑)。

命はそんなにやわじゃない

ハロウィンパーティーにて IN宮崎

ハロウィンパーティーにて IN宮崎

私はわがままで、こわがりで、小心もので、せこくて、すぐにくよくよして、人に言うことをあまり聞かなくて、ドジな大ばか者だけど自分が大好きです。

自然のリズムに沿って、本当の自分の思いに沿って生きれば病気は自然に姿を消すのではないでしょうか。私のまわりにはこんな人、たくさんいます。

「そんなに人生甘くない」
「そんなに精神論ばかり言われても」
「あなたは運がいいだけだ」

こんな声も聞こえてきます。

わかったようなことを言って、人生をあきらめるのだったら、とことん味わって、逃げずに自分と向きあって、力強く生きていきたい。

命はそんなにやわじゃないです。

あの日から、はや約12年の月日が流れました。再発もなく、今はめっちゃ元気です!がんになる前より健康で、幸せです!!
私自身がメッセンジャーになるにあたって、チャレンジャーとならなければなりませんでした。

自分の限界を見切らない、常識にとらわれない、夢を追い続ける、こんなことを自分に言い聞かせながら、今まで自分でつくった自分の枠をぶっ壊すことにチャレンジしてきたのです。

そして、それはこれからも続きます!

もう一つの夢

他人の、しかもたった一人の医師が言った「余命宣告」という時限爆弾をぶっ壊し、自分の、人間の可能性をとことん信じてここまでやってきた。

その過程で大きかったのは「夢」を描くことだった。入院しているとき、描いた夢は、大学時代に一度出たホノルルマラソンにもう一度出ること。しかも、ゴールには結婚するパートナーが待っていて翌日結婚式を挙げるという、超無謀な夢。

2009年12月14日、まさにその夢が現実になろうとしていた。妻になる亜紗比と走れる喜びを噛み締めながら、ゆっくり、ゆっくりと走った。さほど苦しい場面もなく、楽しくて、楽しくて、歌も歌ったりしながら、ずっと笑顔が絶えなかった。

いよいよゴールに近づいていく。とっても楽しかったので、2人で手を繋いでゴールしようと思った。あと30メートルだ!「ゴールに結婚するパートナーが待っていて・・・」という自分の夢なんてどうでもいい、ちょっとアレンジして亜紗比と一緒にゴールするのもいいなと思っていたそのとき、ゴールから逆走してくる男がいるではないか!

その男の名は、大嶋啓介。居酒屋てっぺんの大将だ。啓ちゃん(大嶋啓介)は、「すぎちゃ~ん、おめでとう!」と叫びながら走ってきて、ぼくと亜紗比の手を引き離す。そして「亜紗比ちゃん、ダッシュだっ!」と言って、亜紗比を先に走らせた・・・。亜紗比は先にゴール!そして、そして、ぼくは、ゴールゲートをくぐる直前で、両手を広げて待つ亜紗比の手前10メートルで、ゴールまでの8時間の残りたった3秒のところで、涙が止めどなく溢れてきてしまった。それまで、ずっと、ずっと笑顔だったのに・・・ゴールで待っていてくれた亜紗比の顔を見た瞬間、涙腺が決壊した。

「すぎちゃん、おめでとう!」「タカちゃん、おめでとう!」仲間も祝福してくれてまたまた号泣!「夢が叶った!」「9年間の思いが現実になった!」「あきらめなくて良かったね!」と皆、口々に言ってくれた。

でも・・・ぼくの涙の訳は「夢が叶った」ことではなかった。亜紗比の顔を見たとき、これまでの辛かったこと、苦しかったことが一瞬で映像となって脳裏に思い出された。がんを告知されて絶望に打ちひしがれていたときのこと、手術の痛みに絶叫していたときのこと、抗がん剤の副作用に「死んだほうがまし」と生きることを投げ出したくなっていたときのこと、度重なる腸閉塞に悶絶していたときのこと。そのすべてが亜紗比とゴールで抱き合うためにあったのだと思えて、湧き出る涙を抑えることができなかった。

生き抜いてきた自分に感謝、ぼくを生かしてくれたすべての命に感謝した。

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2009年の元日に入籍。11月16日には、念願の第一子(女の子)が誕生。なんと、母の誕生日に生まれてきてくれました。しかも母は還暦だったので、干支も同じ。ぼくの病気のとき、「余命は早くて半年、よくもって2年」と宣告されたとき、見守った母のほうがきっと辛かったはず。そう考えると、「余命宣告」から10年を経過したその年の母の誕生日に、「孫の誕生」という最高の恩返しをすることができたと思います。

アスパラガスがアスファルトの道路を突き抜けて出てくるというニュースを聞く。自然は、命は、時として、人間には想像もつかない奇跡を起こす。どんな壁が立ち塞がっても力強く生き抜いてほしいという願いを込めて、我が子に芽(いぶき)という名前を付けました。

ぼくも出産に立ち会い、それは人生で最高に感動する瞬間となりました。

ぼくたちが選んだのは、自然分娩で知られる岡崎市の吉村医院。母親の産む力と、子どもの産まれようとする自然の力を信じ、医療の介入はギリギリまでしないという方針の産婦人科。破水で入院してから5日間、陣痛が来てから47時間かけて、妻は我が子を命懸けで産み出し、我が子は命懸けで産まれてきてくれました。

そんな妻が言っていたこと。

「お産はとてもとても長かったけれど、難産とは思っていません。痛みも恐怖も不安も感じましたが、それを乗り越える勇気を学び、お産できたときの喜び、幸せ、自信、その一瞬一瞬を長く大切に味わえました。とても深く幸せな満足いくお産でした。私もこのお産を通じて自信をもらいました。命懸け産んだのだから、命懸けでこの子を守っていきます」

?我が子も長く険しいお産を乗り越えて産まれてきました。人の誕生とは、人生の最初の壁を破ってくる瞬間。だからこそ、「この世に生きている」ただそれだけで自信を持っていいのだと思えました。

産まれた直後、母の胸で安心しきった顔で眠る芽(いぶき)を見て、この絆は父と子にはない、つくづく男は淋しい生き物だなと感じた(笑)。でも、だからこそ、この二人を全力で守っていくことが自分の父親としての役目だと思いました。

人間は、命懸けで、強く望んでこの世にやってくる。そして、命懸けで守られ、望まれてやってくる。

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夢の続き、がんサバイバーホノルルマラソン

入院のベッドで描いていた夢、ホノルルマラソン完走。手術から6年後にその夢を叶え、伝えていた言葉。

「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった!」

心がときめいたら、まずは動くこと。元気は、後からついてくる。

その後、「走ったから元気になった!」の言葉に、たくさんのがんサバイバーが走り始めてくれました。

病院で治療中のがん患者さんも、ホノルルマラソンを希望にして治療を乗り切り、実際にホノルルを走って元気になったことを伝えてくれました。

それならば・・・

「もうがんサバイバーさんを、まとめてホノルルに連れていって、自分自身の内なる力で、仲間の力で、みんなで元気になればいいじゃないか!」

と思いつき、2010年、がんサバイバーホノルルマラソンツアーを計画したのです!

2010年12月、第1回「命はやわじゃない!」がんサバイバーホノルルマラソンツアー、参加者約80名、完全完走、完全完笑、大成功でした!

走られた皆さんの何があってもあきらめない心、仲間の温かい支え、日本から、世界各国からの大きな応援の力によって、最高の結果が生まれました。

すべてのゴールが輝いていました。すべての命がキラキラと輝きました。

そして、参加者は「自分への揺るぎない自信」と「仲間の絆」という宝物を手に入れ、ホノルルのゴールが新たな輝ける人生のスタートとなったことでしょう。

「走れるほどに元気なったのではなく、走ったから元気になった!」

ツアーに参加した、たくさんのがんサバイバーさんがその姿で証明してくれました。

小さな一筋の希望の光が寄り集まり、光の束となって、ホノルルのゴールで燦然と輝きました。絶望を伝えるニュースが多い中、この希望のうねりをもっともっと大きくしていきたい。

そんなわけで、今年もホノルルマラソンツアー、やっちゃいます!

お友達にもお知らせください~!

まずはチームメッセンジャーに加入してください。

http://www.resumai.com/team-messenger.htm

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ホノルルを走ったメンバーそれぞれ、これからも大変なことが待っているかもしれません。でも、そんなときこそ、このツアーで生まれた「自分への自信」と「仲間の絆」という宝物を思い出して、その壁を乗り越えていってほしいです。

必ず、道はある。一人で進むには困難な道に、希望の光が束になって降り注いでいたら、きっと自信を持って進んでいける。進む道を、仲間と照らし合っていけば、きっと勇気を持って進んでいける。

そして、マラソンと同じように、道はどこまでも続かない。必ず、終わりはやってくる。“あきらめないで生きる”こととは、“終わり”から目を反らし、「死にたくない」と“生”にしがみつくことではない。

ゴールをしっかりと意識し、未来に希望の光を見出し、ワクワクしながら思いっきり今という“生”を楽しむとき、命は輝く。

命は輝きたがっている。いや、いつも命は輝いている。その輝きを今こそ、解き放ってやりましょう!

人生のゴールを満面の笑顔で迎えるために。

第2回「命はやわじゃない!」がんサバイバーホノルルマラソンツアー。

皆さんをお待ちしています。

チームにエントリーした瞬間、ドラマは始まります。

命はやわじゃない。君はひとりじゃない。

チームメッセンジャーへの参加はこちらから。

http://www.resumai.com/team-messenger.htm

より詳しい日記はこちらから

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