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プロフィール/自分史

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杉浦貴之
Takayuki Sugiura

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1971年愛知県西尾市生まれ、岡崎市在住。1999年28歳のとき、腎臓の希少がん(肉腫)宣告。腫瘍は巨大で悪性度が高く、両親には「早くて半年 、2年後生存率0%」と伝えられた。病床では「ホノルルマラソンのゴールでパートナーと抱き合い、翌日ハワイの教会で結婚式を挙げる」という夢を描き続ける。 左腎摘出手術後、化学療法2クール。再発予防のため、自己治癒力を高める方法を模索し、世界各国、日本全国を旅する。呼吸法を学んだことで、発声により体の回復を実感し、歌うことへ繋がっていく。 2008年、病床で描いていたホノルルマラソンと結婚の夢を叶え、2010年より、がん患者、家族、サポーターと行く「がんサバイバーホノルルマラソン」を主宰。 現在、命を唄うシンガーソングライターとして、命のマガジン『Messenger』編集長として、がんになる前より元気にトーク&ライブ、一般講演、学校講演、取材など全国を駆け回っている。 主な出演番組「奇跡体験!アンビリバボー」「誰も知らない泣ける歌」。2010~2019年「がんサバイバーホノルルマラソンツアー」を主宰。 2007年、1stアルバム『Life is strong』、2014年、2ndアルバム『Rebirth』、2019年、3ndアルバム『YELL ~あなたの命が輝きますように~』リリース。2011年、著書『命はそんなにやわじゃない』(かんき出版)を出版。

幼少期の写真

敏感だった幼少期

幼い頃からとても好奇心旺盛だったようです。世の中のいろんな疑問を両親や身近な人にぶつけていました。答えの多くは「そんなこと考えるな、そういうものだと思え」というもの。それ以来あまり深く訊ねることを止めてしまったようです。そんなことを聞く自分がおかしいんだ・・・と。
保育園に入る前だと思いますが、自分以外に存在するものはすべて敵で、いつか襲ってくるのではないかとおびえることもありました。鮮明に記憶しています。どこの家庭にもある確執に、私は他の子どもたちに比べて、より敏感反応していたようです。 彼ら、彼女たちはお互いの悪口や不満を僕たち子どもにぶつけました。毎日、家族のご機嫌を伺い、毎日、毎日、来る日も、来る日も、僕はそのことに神経をとがらせていました。今日はみんな機嫌がいいかな?お願い、仲良くしてよ。お願いだから、笑ってよ・・・。 人のご機嫌を伺うことや人に合わせて自分を抑えることを身に付けてしまったようです。いつも、“伝えたい思い”を心の中に押し込めていました。 そのほうが平和だったから。人が怖くてたまらない。他人が自分のことをどう思うか気になって仕方ない・・・。 失敗をすると、迷惑をかけると、いつも自分を責めていました。 しかしこのような運命を全然恨んではいません。母も、父も、祖母も、祖父も、それぞれが深い愛情を僕に注いでくれて、そして、それぞれが自分の人生を懸命に生きていたのです。今の自分があるのはこの家庭に生まれてきたおかげであり、ここまで育ててもらったことにとても感謝しています。

いい子になりたかった学生時代

みんなの笑顔が見たいから、僕はいい子になろうとしました。小学校、中学校、高校といわゆる優等生(超ではない)でした。生徒会長もやりました。親を喜ばせるため、社会で成功するためと勝手に思い込み、勉強もしました。 人間関係で悩み、本当の親友なんていないし、人に溶け込むのが苦手でした。当然、恋愛も奥手で、高校にあがると人前で女の子と話すら出来ませんでした。
1990年、名古屋の大学へあがり、何とかこのことを克服しようと誘われる合コンはすべて参加。まさに合コンの雨あられでした。合コン、合コン、雨、合コン(権藤、権藤、雨、権藤)。最初は楽しいというより拷問!合コンが拷問・・・。 女性とコミュニケーションをとるのに必死な自分。そのとき出会った女性からの言葉。 「杉浦くんって、意気地なしね」 肝心な場面でせめきれない。それでも、数々の失敗のあと、何とかまともに女性と話もできるようになり、本物かどうかは別として、世間一般でいうところの恋愛の形を体験できるようになりました。 また、小学校からやっている野球で成果があがったのも自信になりました。あるときピッチャーも任され、4番を打ち、ホームランもスタンドに放り込みました。苦しいだけの野球から、野球そのものを最後の1年で楽しむことができたのです。 大学4年生のとき、卒業旅行でホノルルマラソンに参加し、3時間50分で完走。ゴール後、感動の涙があふれました。自分って本当はすごいじゃん!自分を思い切り褒めたこの瞬間、この体験が後の自分を支えることになります。 ただ人間関係については、自分を抑えて他人に合わせることによって、他人への恐怖を取り除いていたように思います。本当の意味では解決しておらず、問題にふたをしていただけでした。 自分なんて・・・自分にいつも掛けていた言葉です。

就職・・・早く逃げたかった

22歳、桜が満面の笑みをたたえる季節、地元の会社に入社しました。まじめに仕事に打ち込み、ここでも僕は、常に社長や上司の顔色を伺っていました。 高い給料をもらい、外車に乗り、週末はゴルフ、夜はクラブと、楽しい思いもいっぱいしました。同級生と比較しては優越感に浸る生活。
心も体も休ませることを許しません。仕事から帰っても、家で勉強、仕事。休みの日、友だちが遊びに来ても「仕事だから」と断り、女性とのデート中、上司からゴルフの誘いがあれば、もちろんデートは終了。「ごめん、仕事が入った・・・」。 心身のコントロールができず、自分でストレスを作り出していることには気付けません。いつのまにか、表面上の人間関係を無難にやり過ごす術を身に付けていたのです。それは本当の自分をますます抑えることになりました。 常に「恐怖」の中に生きていました。毎朝、「今日は上司の機嫌はいいだろうか?」。電話が鳴れば、「お客さんからのお叱りの電話に違いない」と。 オフィスには業績の番付表が貼られ、同僚との蹴落とし合いが繰り広げられる。何のために生きているのだろう?この辛い時期を乗り越えれば幸せは待っているのだろうか?いつになったら幸せになれるのだろうか? 逃げたい、逃げたい、逃げたい・・・

まさかのがん宣告

逃げたい、逃げたい、逃げたい・・・。ついに、僕の思考は現実化してしまいました。会社に勤め出して6年半、1999年10月1日、中日ドラゴンズがリーグ優勝を決め、星野監督が宙を舞ったその翌日、がんを宣告されたのです。 ボードを指差し、主治医は言いました。まるで、風邪の症状でも告げるかのように、たんたんと・・・。
「悪性腫瘍だな。おそらく、がんだ」 震える足で主治医に詰め寄りました。 「うそでしょ!うそでしょう!?何かの間違いじゃ・・・」 恐怖でした。しかし、その心の奥に不思議な感覚もありました。それは、安堵。これでやっと休めるよ。これでやっと抜けられるんだ・・・。 このときのがんのイメージは「死に直結する病気」。28歳でいきなりに死に直面したのです。「これは本当に自分のことなのか?」なかなか自分のこととして受け入れられません。 「何で俺なんだろう?」「何で今なんだ?何か悪いことでもしたのか?」 これからかなり短い間に、僕はこの世からいなくなってしまう。それが寂しくてたまらなかった。やせ細り、痛みにもがき、苦しんで死んでいく・・・。 そんな自分の姿が見えていました。幸せなのは、夜夢を見ているときだけ。朝起きてからが、いつも悪夢の始まりでした。 「これが現実なんだ。ずっと夢を見ていたかったな」

決意

子どもの脳にできやすい肉腫(未分化原始神経外胚葉性腫瘍)が自分の腎臓に巨大な塊を形成していました。当時症例は20例しかなく、2年以上生存している人がいなかったと後に知らされます。 両親にのみ告げられた余命宣告。 「余命は早くて半年。2年後に生きている可能性は100%ない」 この医師の絶望的な言葉に、母はショックで泣き崩れたわけではありませんでした。

「余命宣告など、私は絶対に信じません。息子を信じます!」 そう医師に啖呵を切って診察室を出ていったといいます。親の信じる気持ちは僕の心の奥底まで伝わってきました。 当時共働きだった両親は、仕事を終えると毎日、車で1時間かけて見舞いに来てくれました。言葉ではなく、その姿から、まなざしから、二人の思いが伝わってきました。 「自分の命に代えてでも、貴之を助けたい!」 そして思いました。 「僕は無条件に愛されている」 それまでは条件を満たさなければ愛してもらえないと思っていました。テストでいい点を取れば、いい大学に入れば、いい会社に入って高い給料をもらえれば、愛してくれる・・・。 自分の生きる目的は、親の期待に応えること、親にとっての自慢の息子でいることだったのです。 長男の僕は「海外を飛び回る仕事がしたい」という夢をしまい込み、地元の高校、地元の大学をストレートで卒業。就職したのは、家から10分のところにある会社。誰よりも親孝行をしていると思っていました。 しかし・・・それは勘違いでした。 「がんになっても、親はこんなにも自分を信じてくれている、何もできずにいるこんな自分でも愛される価値がある、僕の回復を心から祈ってくれる人がいる」 そう思ったら涙が止まりませんでした。両親が病院を後にすると、いつも感謝の涙で枕をびしょびしょに濡らしていました。 「僕が生きているだけで、お父さん、お母さんは嬉しかったんだ。生きているだけで、お父さん、お母さんに幸せを与えていたんだ。生きているだけで素晴らしい、生きているだけで祝福されている。大丈夫!大丈夫だよ!僕は僕で良かったんだ」 親の信じる強い気持ちと無条件の愛が消えかけていた僕の命を救ってくれました。 「生きていることそのものが素晴らしい」 そう気付けたとき、心と体から力がストンと抜け、この現実に立ち向かっていくための新たな力が僕の中に宿りました。 ある日、夢を見ました。それは両親が僕の葬式を出している夢。変わり果てた僕の姿を見て、両親、家族が涙を流しています。その翌朝、両こぶしを握り締めて、力強く起き上がりました。 「こんなことは絶対にさせられない!このままで終われない!」 僕の心にスイッチが入りました。この病気を「絶対に治す」と決めたのです。大きくネガティブにふれていた振り子が、その反動で、同じように大きくポジティブに振れ始めました。 そして、「がんを治す」だけではなくて、「たった一度の人生、思いっきり好きなように生きてやろう!」と思いました。「未来の幸せ」のために、「今苦労する」のではなく、「今、幸せになろう!今を楽しむんだ!」と。

病床で描いた夢

1999年10月14日、左の腎臓の摘出手術。入院での抗がん剤治療2クールを終え、12月25日、退院。 若くて体力があったので、とても強力な抗がん剤が注入されました。脱毛、吐き気、ひどい倦怠感・・・その副作用は想像以上でした。副作用がピークに達していたある日、看護学生からこんなことを聞かれました。
「杉浦さんの夢は何ですか?」 このがんの僕に夢を聞くのか?夢なんか、夢なんか持てるはずないだろう? 怒りがこみ上げてきました。 しかし、「待てよ」と思いました。がんだから夢を持てないって誰が決めた?がんだから未来はないと誰が決めた? まぎれもなく、自分自身でした。そう気づいた次の瞬間、僕の口から言葉が出てきました。 「大学時代に参加したホノルルマラソンにもう一度出たい!」 「治すために生きる」から「生きるために治す」に変わった瞬間でした。 夢はさらに膨らみます。 「ホノルルマラソンを完走し、ゴールには結婚するパートナーが待っていて、抱き合って喜び、次の日、結婚式を挙げる」 どんなに辛くても、夢を描くのは自由。ただ夢を見るのではなく、ベッドの上で、実際に夢が叶っていく場面を疑似体験しました。 これまで支えてくれた人々に感謝し、涙を流しながらスタートを切る。ベッドの上でも実際に涙し、足は動かすことができないので、手だけでも振る。 沿道で応援してくれる人々とハイタッチ。流れ出る汗、涙、天気、ハワイの強烈な日差し、灼熱の暑さ、漂うにおい・・・すべてをリアルに味わってみる。 ゴールでは愛するパートナーが最高の笑顔で僕を迎えてくれた。結婚式でスピーチをする手紙をベッドの上で書き、読み上げては毎晩号泣。 「○年前のあの日々から、この日が来ることを信じて歩いてきました。生きることを諦めなくて本当によかったです。妻と幸せな人生を築いていきます。ここまで支えてくれた両親、家族、親戚、たくさんの仲間たち、本当にありがとうございました!」 28歳のエネルギーあふれる青年の妄想はさらに拍車がかかります。昼間は「ナースのランキング」を作り、夜中は「ナースが僕の布団に入ってこないかな?」などと妄想にふけります。 外出許可が出ると、抗がん剤で禿げた頭をオシャレなハットで隠して、友人とネオン街に繰り出しました。 たどり着いたお店で出逢ったのは、なんと、がんを克服して7年経っているという女性。どれだけ勇気をもらえたことでしょう! 元気は待っていてもやってきません。元気になるのを待つのではなく、元気をつかみにいったのです!ただ決して真似はしないように・・・。

(退院から3日後、友人の結婚式にて)

退職・放浪の人生へ

回復の道のりは、そんなに平坦ではありませんでした。命に関わる病気になっても、3か月後には以前の職場に復帰しました。がんになっても、頑張りすぎる、強いところを見せたがる自分がいました。 やはり体調は良くならず、長野の穂高養生園に1週間療養に行かせてもらいました。山の中を散歩中、ふと自分の中にある思いが湧き上がってきたのです。
「何を優先しているんだ!?また親の期待?他人の評価?ダメだ、ダメだ。このままではいけない!自分をもっと大事にしろよ!」 決めたのは一瞬の感覚でした。帰ったらすぐに辞表を提出し、退職。 ここから放浪の旅が始まります。2000年12月、長野の松川村で生活合宿を開催している松川ナリッシュに行きました。ここではマクロビオティック、仏教、瞑想について学びました。この世界を体験することによって、かなり心と身体が癒されていきました。 そこから沖縄、バリ島、ハワイ、スコットランドのフィンドホーンと繋がり、ご縁を辿って旅を続けました。 たくさんの出会いがありました。そんな中で、自分を表現し、思いを伝えることが少しずつできるようになっていきます。 泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、艱難辛苦、喜怒哀楽、すべてを味わうことが生きるってことなんだと、わかってきました。 病気になる前は、怒り、悲しみ、憎しみ・・・ネガティブな感情はすべて抑えてきましたそれが心のなかで暴走し、処理できずに、病という症状となって現れたのかもしれません。 「表現してもいいんだよ。さらけだしてもいいんだよ。泣いてもいいんだよ。悲しんでもいいんだよ。大丈夫!人って温かいんだ」 自分をさらけ出したら、みんなが大きな愛で包んでくれたのです。 「もっと甘えていいんだよ」 2000年の2月、フィンドホーンに共に行った仲間の縁で、音楽プロデューサーの牛島正人さんと出会いました。牛島さんのボイストレーニングを受けて、身体がどんどん軽くなっていきました。 すべてをゆだねて、解放して、本当の声を取り戻し、自分の声で自然治癒力を高めていくというものです。この出会いが歌を歌うことに繋がっていきます。

腸閉塞を発症

放浪の旅、それは身体と向き合う旅でもありました。諦めずに一歩ずつ歩いていきます。ときには、足がすくむほどの断崖絶壁が目の前に現れました。そんな簡単には元気になっていきません。まだまだ、学びは終わっていないようでした。 2002年8月、がんの手術から3年、最初の腸閉塞を発症。僕の身体は強烈なメッセージを発してきました。それから1年半の間、計5回の腸閉塞を引き起こし、僕の心をノックし続けたのです。
最後の5回目の腸閉塞のとき、やっと問題が解けました。 2002年12月に宮崎県に移住してからは貯金も尽き、親の仕送りで生活していました。僕は常に人と比較して生きてきました。30過ぎの男が親に食べさせてもらっている。同級生たちは、結婚し、家庭を持ち、家を建て始めている。 僕はといえば、親のスネをかじりながら、仕事もせず、家に引きこもる生活。そこから脱したくて、求人雑誌を読みあさり、面接のアポイントを入れる。そんな日に腸閉塞は起きました。 生き急いでいたのです。同級生と比較して、「なんて情けないんだろう」と自分を責めていました。痩せている自分を認められず、もっと太ろう、早く元気になろうとして、炊いた玄米を大量に油で炒って、よく噛まずに食べる。焦って、焦って、食べ急いで、腸が悲鳴を上げたのです。 2004年1月、5回目の腸閉塞のとき、やっと僕は自分を許すことができました。 「ゆっくり治していいんだよ。今は痩せていてもいい。元気がなくてもいい。自分は自分でいいんだ。誰とも比較する必要はない。いつか元気になるのを信じているから!どんな自分も今が自己ベスト!」 「生きているだけで素晴らしい。自分は迷惑な存在なんかではない」 このエピソードを元に、腸閉塞の戒めの歌『かあちゃん、ごめんね』という名曲もできました。

Messengerと歌

2002年10月、知人と旅行で訪れた宮崎。「ここで元気になれる」と直感し、いてもたってもいられず、親を説得して、12月には移住。宮崎でも腸閉塞を繰り返しながら、たくさんの人と出会い、少しずつ元気になっていきました。
串間市・石波海岸

(串間市・石波海岸)

青島の夕陽

(宮崎市・青島の朝陽)

がんになってからの僕の生きがいは人と人、人と場所を繋ぐことでした。インターネットで掲示板を作り、情報を発信し、たくさんのがん患者さんと交流。その中で影響を与えてくれた素敵な人、旅で訪れた元気になれる場所、何となく身体に良かった養生法などを紹介していました。 2005年1月、ついに命のマガジン「Messenger」創刊。ご縁繋ぎを生きがいとして生きていた中で、雑誌という媒体を使って、さらに多くの人の役に立ちたい、生きる希望を失いかけている人に光を灯したいと思ったのです。 特に僕はがんを乗り越えた方々にたくさんの力をもらってきました。がんを克服された方の本を読んで感動すれば実際に会いに出かけ、講演会があれば飛んでいきました。暗いニュースの多い中、そんな生還者たちを取材して、生の声を届け、少しでも世の中に希望を増やしたいと思ったのです。 「命はそんなにやわじゃない!命は輝きたがっている!自分で生きるスイッチを入れてほしい!」 雑誌制作なんて経験もなく、完全など素人。取材、写真、広告営業、販売活動、すべて一人で始めました。思いだけで走り始めたら、たくさんの人が応援してくれました。希望を届けたいという思いで走り始めたら、自分自身もどんどん元気になっていきました。 Messenger創刊号

(Messenger創刊号 2005年1月29日発行)

『Messenger』を創刊したことが宮崎県で話題になり、新聞、雑誌、ラジオ、テレビでも取り上げられるようになり、まさかの講演依頼もいただくようになりました。 運命の日は訪れます。2005年7月、宮崎県延岡市のがん患者会で講演をさせていただいたときのこと。思い付きで講演の最後で、KANさんの『愛は勝つ』を替え歌にして、『がんに勝つ』と歌ってみたのです。みんなを笑顔にしたくて。 会場は涙と大きな笑いに包まれて一体となり、皆が拳を振り上げてこちらに迫ってくる勢いでした。な、なんなんだ!音楽ってすごい!間違えて「最後にがんは勝つ~♪」と歌ってしまった人もいて、「それはダメでしょう~」と、ものすごい笑いも起きました。な、なんなんだ!笑いの力もすごい! 1時間半一生懸命話したのに、たった3分の歌の感想しか言ってくださらなくて・・・(笑)。「歌が最高だった!すごく感動したよ!」と。嬉しいような、悲しいような複雑な気分でした(笑)。 自分の歌、イケるかも!僕の勘違いはさらに加速。以来、講演の最後には必ず、歌を歌うようになっていました。 調子に乗ってオリジナル曲『Life is strong』(作曲:Toshi小島)まで作り、以降、詩が次から次へとあふれ出てくるようになり、友人のミュージシャンが作曲してくれて、今では自分でも作曲をするようになり、講演に、オリジナル曲をミックスさせた‟トーク&ライブ“というスタイルを確立しました。 病と向き合った体験は共感を呼び、そのストーリーに沿った歌が心に沁みると評判の‟トーク&ライブ“は全国に広がっています。現在、3枚のアルバムをリリースしています。 中学3年生のとき、ふと友人に漏らし、すぐに自分で押さえ込んだ夢。「オペラ歌手になりたい・・・」。ジャンルは違いますが、人前で歌を歌うという夢が叶っています。

ホノルルマラソンの夢

そして、2005年12月、入院当時からの夢だった、2度目のホノルルマラソンに挑戦。このときパートナーは現れておらず、仲間と参加。 本番当日、42.195キロを一度も歩かず、5時間28分で完走。ゴールの瞬間、感動の涙・・・はなくて、まだまだ走りたいと思っていた自分に感動! ある人に聞かれました。
「フルマラソン走るなんて、すごい!よく走れるようになったね~!」 「いや、違うんです。走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になったんです!」 この言葉を発したとき、すべてが繋がりました。親の思いで「自分で治してやる!」というスイッチが入ってから、僕はずっと動き続けました。走り続けました。 元気になったら動くのではなく、感じて、動いて、走って、元気をつかんできました。たまに勢いありすぎて、壺やお札に手を出し、痛い目にも遭ってきましたが(笑)。 2005年12月ホノルルマラソン完走後

(2005年12月ホノルルマラソン完走後)

2008年12月14日早朝5時、ホノルルの上空に花火が打ち上げられ、たくさんの歓声の中、スタートは切られました。 抗がん剤治療中、脱毛、吐き気、倦怠感・・・生きる気力を失うほどの副作用の中、芽吹いた夢。 「ホノルルマラソンを完走し、ゴールには結婚するパートナーが待っていて、抱き合って喜び、次の日、結婚式を挙げる」 どんなに辛くても、夢を描くのは自由です。以来、どんな状況でも、僕は明るい未来を描き続けてきました。その夢がもうすぐ叶おうとしています。 手術から約9年、妻になる人と、ホノルルの街をずっと笑顔で走り続けました。どんなに苦しくても、笑いを絶やさずに。「逆境こそ楽しむんだ!」というスピリットで、苦しいときこそ笑い続けてきた僕の復活の道のりを、ホノルルの『42.195km』に凝縮したのです。 涙ではなく、笑顔のゴールと思っていたのですが、ゴールゲートをくぐる直前で、両手を広げて待つ彼女の手前10メートルで、涙が止めどなくあふれてきてしまいました。 彼女の顔を見たとき、これまでの辛かったこと、苦しかったことが一瞬で映像となって脳裏に思い出されました。 がんを告知されて絶望に打ちひしがれていたときのこと、手術の痛みに絶叫していたときのこと、抗がん剤の副作用に「死んだほうがマシ」と生きることを投げ出したくなっていたときのこと、度重なる腸閉塞に悶絶していたときのこと。 そのすべてがこの瞬間のためにあったのだと思えて、湧き出る涙を抑えることができませんでした。 2008年12月、ホノルルマラソン

(2008年12月、ホノルルマラソン)

夢の続き、がんサバイバーホノルルマラソン

入院中のベッドで描いていた夢、ホノルルマラソン完走。手術から6年後にその夢を叶え、伝えていた言葉。 「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった!」 その後、「走ったから元気になった!」の言葉に、たくさんのがんサバイバーが走り始めてくれました。病院で治療中のがん患者さんも、ホノルルマラソンを希望にして治療を乗り切り、実際にホノルルを走って元気になったことを伝えてくれました。
青森県在住のSさん(現在49歳)は、2003年9月、乳がんの手術を受けます。 そんな彼女は僕の言葉に触発されて、2006年、故郷青森で初マラソンに参加。5kmの部に出場し、感動、号泣のゴールを果たします。 そしてその後、10㎞、ハーフ、フルマラソンと距離を伸ばしていき、今では完全にランナーと化してしまっています。2009年はなんと100㎞のウルトラマラソンを見事に完走。そのとき彼女は言いました。 「がんになる前より100倍元気になった!」 また、Sさんは2010年、ウルトラマラソンを通じて出会った男性とめでたく結婚。お子さんも生まれ、幸せに過ごされています。 それならば・・・。 「もうがんサバイバーさんをまとめてホノルルに連れていって、自分自身の内なる力で、仲間の力で、みんなで元気になればいいじゃないか!」 「夢を持ち、それを叶えていくことで人は元気になれる」「走ることで元気になれる」ことを確信し、もっともっとたくさんの人に元気になってもらいたいと思うようになっていました。僕の生きがいは、人と人を繋ぐこと、人と場所を繋ぐこと、宝物のおすそ分け。 僕の中で発芽した夢は、チームを作り、がん患者さんを集めてホノルルマラソンツアーを作ることでした。 「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった!」 このことをたくさんのがん患者さんに体感してもらいたい。治すことを目的とするのではなく、治った後のワクワクする楽しい夢を持ち、その夢を叶え、自分自身の大きな可能性に気づいてほしい。 そして、がん患者さん自身がホノルルのゴールで希望の光となって、他のがん患者さんを照らしてほしいと願いました。チームメッセンジャーの誕生です。 がんに関してはマイナスな情報が多すぎます。テレビや映画でも亡くなられる方の話が多く、そこから大切なことも教えられますが、希望や勇気は与えられません。 そこで、このがんサバイバーホノルルマラソンツアーを開催することにより、「がんを宣告されても、夢を叶え、元気なる人がたくさんいる」そんなプラスの情報を世の中に投げかけたいと思ったのです。 2010年12月、第1回「命はやわじゃない!」がんサバイバーホノルルマラソンツアー、参加者約80名、完全完走、完全完笑、大成功でした! 走られた皆さんの何があってもあきらめない心、仲間の温かい支え、日本から、世界各国からの大きな応援の力によって、最高の結果が生まれました。すべてのゴールが輝いていました。すべての命がキラキラと輝いていました。 「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になった!」 たくさんのメッセンジャーがそのことを姿で示してくれました。希望の光は、一つ一つは小さいかもしれないけど、それは束になり、光の柱となったのです。僕ががん告知を受けたとき、一筋の希望の光はとても小さかったです。しかし今、少しは見つけやすくなっていたら嬉しいです。 この活動により、「がん=絶望」という闇の世界から、たくさんのがん患者さんに光あふれる希望の道を見出してもらいたいです。 皆さんそれぞれが己の中にある『想像を超えた可能性』に気づき、大きな自信を得たことでしょう。そう、自分の力を制限しているのは、まぎれもない自分自身。できないと決めつけているのも自分自身。自分自身を信じ切れたとき、自分の想いに、自分の描いた未来に、命は、細胞は必ず応えてくれるはずです。 さらに、一緒にホノルルを走った仲間、日本から応援する仲間の間に、強い絆が生まれます。あのホノルルの地で結ばれた強い絆は、これから一生切れることはありません。ホノルルマラソンのときだけでなく、それぞれが歩んでいく人生の中で、家族のように励まし合い、助け合い、支え合って生きていけます。 ホノルルを走ったメンバーそれぞれ、これからも大変なことが待っているかもしれません。でも、そんなときこそ、このツアーで生まれた「自分への自信」と「仲間の絆」という宝物を思い出して、その壁を乗り越えていってほしいです。 がんサバイバーホノルルマラソンツアーは現在も続いています。

(仲間とすれ違うたびに元気をもらう)

(最終ランナーをみんなで迎えます)

チームメッセンジャー⇒ https://taka-messenger.com/tm/ (登録は無料です。ぜひぜひ仲間になりましょう)

命は輝きたがっている

今までを振り返れば、楽しいことばかりではありませんでした。むしろ、辛くて泣くことのほうが多かったです。それでも、闇の果てに光あることを信じ、悲しみの先に喜びあることを信じ、涙の先に笑顔あることを信じ、何があっても自分を信じ抜いて、ここまでやってきました。
そして僕の場合、ファイティングスピリットを持って病気に立ち向かっていっても、長くは続きませんでした。疲労困ぱい、スタミナ切れ。ならば、楽しむスピリットを持ってに向かっていく。これが僕の生きてきた道。もちろんこれからも! 「がんばることに限界はあっても、楽しむことに限界はない!」 必ず、道はあります。一人で進むには困難な道に、希望の光が束になって降り注いでいたら、きっと自信を持って進んでいけます。進む道を、出会った仲間と照らし合っていけば、きっと勇気を持って進んでいけます。 ホノルルマラソンだけでなく、国内マラソン大会、ウオーキング大会、トーク&ライブ、講演会、オンラインライブなど、様々な形で素敵な仲間と出会う機会、場所を用意しています。 このサイトでそんな場所を見つけてください。ぜひ、勇気ある一歩を踏み出してみてください。その一歩が人生を変えることもあります。いつかどこかでお会いできることを楽しみにしています。 マラソンと同じように、道はどこまでも続いていきません。必ず、終わりはやってきます。「諦めないで生きる」こととは、“終わり”から目を反らし、「死にたくない」と“生”にしがみつくことではありません。 ゴールをしっかりと意識し、未来に希望の光を見出し、ワクワクしながら思いっきり今という“生”を楽しむとき、命は輝きます。命は輝きたがっています。いや、いつも命は輝いています。その輝きを今こそ、解き放ってあげましょう!

自伝『命はそんなにやわじゃない』(かんき出版)

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